reika’s personal blog

このブログは、@silkymilkyreika でチーム三日月狼として主に活動しているreika氏のオフィシャル?ブログです。

伝え聞いた話

皆様どうも。reikaです。





今回のブログは、正直かなり重いです。話が。




なので、気分悪くしそうだなとか、そういう話が好きではないという方は見ない方がいいです。




今回のお話、原爆の話です。
真実を少しでも知りたい方、何があったのか知りたい方、原爆を知らない方。
そういう方達には是非、見て頂きたいと思います。




楽しい話はありません。当たり前ですが。
見てて辛くなったらすぐ閉じてください。無理して見るようなものではありませんので。




ただ、私は今日の話を聞いて、誰かに伝えたいと思いました。だから、この場でだけでも伝えさせて頂きます。








1945年、8月6日。
広島に、原子爆弾が投下されました。




学校でも習いましたね。
悲惨な事件です。




原爆が落とされたその時に、多くの人が、一瞬にして、亡くなりました。




一体どれくらいの方が一瞬にして亡くなられたのでしょうか。




原爆が落ちるまで、広島の街には約35万人が暮らしていました。




それが、一瞬にして約14万人が、その命を落としました。




どのように彼らが死んでいったのか、想像もつきません。




爆心地近くにある原爆ドーム
そこは終戦後、原爆の被害を象徴とする場所になっています。




しかし、アメリカが爆心地として狙っていたのは、原爆ドームではありませんでした。




米軍の本来の目標は、原爆ドームの前を流れる川に架かる"相生橋"でした。




相生橋は空から見るとTの形をしていて、それを見た米空軍が「Target Bridge」と呼び、目標としたらしいです。




実際には、目標から少し外れ、原爆ドームのすぐ近くの病院に落ちました。




それでも、大きな被害を生み出したことに変わりはありません。




原爆は地上から600mのところで爆発しました。
最初に広島の人々が受けたのは、熱線でした。




爆心地近くで受けた熱線の温度は4000度。
鉄が溶ける温度が1500度ですから、人々は、倍以上もの熱さに曝されました。




次に人々を襲ったのは、爆風でした。




台風が巻き起こす風とは全く異なり、爆心地では秒速440mの風が巻き起こったと言われています。




そこから更に、彼らは放射能にも曝されました。




幾重もの苦しみを受け、もしかすると受けたことも分からずに、広島の人々は亡くなっていきました。




「原爆は一瞬で、多くの人を殺しました」




私が今日話を聞いた、被爆者の方が言われた言葉です。




空から爆弾が落とされ、熱線や爆風や放射能に曝されるまでの時間。




その時間に、隙間はありませんでした。




たくさんの人が、原爆が落ちてから、逃げることもできずに死んでいきました。




この悲しさを、苦しさを、私はどう言えばいいか分かりませんでした。




「可哀想だ」
「苦しかっただろうに」
「惨いものだ」




どれも、当てはまらないような気がしています。
表現できないほど、酷いものだったと思います。




お話を伺っている時も、語り部の方が言われる言葉一つ一つに重みを感じ、ただただ語られる惨状に呆然としていました。




日本人にとって、原爆の被害というものは、生きている限り忘れてはいけないものです。




実際に被害を受けた方々からその次の世代へ、そして私たちの世代、その次の世代へ。
歴史が今の時代まで語り継がれるように、戦争で起きた悲劇、その被害。忘れてはいけません。




皆様は戦争や、原爆について多少なりとも考えたことはありますか?




もし考えたことがない、という方がいれば、これを機に是非とも考えて欲しいなぁと思います。
そうでなくとも、考える一つのきっかけになればいいなと思います。




お話はたくさん伺いましたし、話したいこともたくさんあるのですが。ここで全てを書くには少し長すぎますので、もう少し知りたいなという方はTwitterでもなんでも聞いてください。
伺ったお話の中で、また私の思うことについて語らせて頂きたいと思います。




では、今日はここまでにします。見てくださりありがとうございました。




H28.12.1 reika